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古代の皇位継承―天武系皇統をめぐる「祟り」と「天罰」

・週刊長野(新刊紹介) 2018年5月26日
持統天皇の策謀解明 祟りと天罰の視点で
信州新町公民館長の宮澤和穂さん(62)=金井田=が、「古代の皇位継承―天武系皇統をめぐる『祟り』と『天罰』(慧文社)を刊行しました。7~8世紀の皇位継承をめぐる権力者たちの思惑と策謀について、「日本書紀」の記述や先行研究を踏まえて、独自の論を展開しています。
天智天皇の子の大友皇子と弟の大海人皇子が争った672年の「壬申の乱」で、勝利した大海人が天武天皇として即位。それから約100年間、天武系の皇統が続きました。
本書では、天武天皇が自身の後継者に大津皇子を望んだのに対し、鸕野皇后(後の持統天皇)が、自らが産んだ草壁皇子とその子らに皇位を継がせるため、藤原不比等と行った策謀について、詳細に検討しています。
宮澤さんは、当時の人々の行動が、不本意な死を遂げた死者の怨霊による「祟り」や、神への誓いに背いたことによる「天罰」といった目に見えない要因につき動かされていたと指摘。持統天皇が祟りを策謀に利用しながら、自身も祟りや天罰に苦しめられていたことを実証する中で、当時の皇位継承の実態と古代史の謎を解き明かしています。
宮澤さんは元小中学校教員で、大学時代から古代史を研究。本書について「天皇陛下の退位準備が進む今、皇室や皇位継承について多面的に見つめ直すきっかけになればいい」と話しています。

古代の皇位継承
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宮澤和穂・著

河口慧海著述拾遺 補遺 (河口慧海著作選集 第13巻)

・平成30年3月21日/中外日報(第28368号)
蔵経問題 慧海の寄稿収録
日本人として最初にチベットに入った河口慧海(1866~1945)が持ち帰った西蔵大蔵経の寄贈先を争った「大正の玉手箱事件」で、慧海が中外日報に寄せた文章が、このほど上梓された『河口慧海著述拾遺 補遺』(高山龍三・奥山直司編)に解説を加えて収録された。慧海が二度目のチベット訪問で将来した大蔵経については、彼自身はダライ・ラマ13世が東京帝国大に贈ったものだとしたが、浄土真宗本願寺派の青木文教は本願寺に寄贈されたものと主張。1917年に両者の論戦が展開された。中外日報もこの問題を取り上げ、東京朝日新聞や大阪毎日新聞などにも報じられて世間を騒がせた。論争は高楠順次郎や鷲尾順敬らも巻き込んで拡大した。河口慧海著作選集の第13巻として刊行された全5部構成の本書は第二部を「蔵経問題」に充て、中外日報等に慧海が寄稿した文章10編余を収録。解説で中外日報をはじめ各紙の報道などを紹介し、事件の経過をたどっている。慧海は若い頃、黄檗宗の紛争に関わり擯斥処分を受けるなど、宗門問題に関しても発言した。本書では仏教紙『明教新誌』に慧海が投稿した9編を併せて載せ、あまり知られない彼の一面を伝えている。この他、近年公開された書簡や未整理資料も校訂を施し収める。

・平成30年5月20日/チベット文化研究会報(第164号)
長らく本研究会の会長を務められた高山龍三氏と高野山大学教授の奥山直司氏の共編になる『河口慧海著述拾遺 補遺』が、慧文社より刊行された。慧文社版の『河口慧海著作選集』は、従来の著作集に収録されなかった手記・書簡などを、『河口慧海著述拾遺』(上下二巻)として収録したが、その後の調査で発見された資料を、さらに補遺として収録したのが本書である。
全体は「黄檗紛争」「蔵経問題」「チベット旅行」「仏教」「その他」の五部からなる。このうち第一部「黄檗紛争」は、慧海が入蔵以前、所属していた黄檗宗の内紛に際して、多々良観輪管長派の先鋒として活動していた頃、「明教新誌」に寄稿した記事を集めたものである。
第二部「蔵経問題」は、慧海が第二次チベット旅行で請来した『チベット大蔵経』の帰属について、慧海と浄土真宗本願寺派が争った、いわゆる「大正の玉手箱」事件に関して、慧海が「中外日報」「大阪毎日新聞」に寄稿した記事と、それに対する反応が「解説」としえ収録されている。当時、チベットからインドの原典を忠実に翻訳した『チベット大蔵経』の完本を入手することは、世界の仏教学者の悲願であった。紛争は、慧海の勝利に終わり、本願寺側の青木文教は、ジャワ開教師に左遷されるという後味の悪い結末を迎える。なお慧海と大谷光瑞は、第一次チベット旅行の後、インドで会っているが、光瑞は当初から慧海を警戒していた。おそらく黄檗紛争における彼の「壮士坊主」ぶりが、光瑞の耳に入っていたからであろう。
第三部「チベット旅行」は、慧海が自らのチベット旅行に関して、種々の雑誌に寄稿した記事から構成されている。『チベット旅行記』を読んだことがある読者なら、とくに目新しい情報はないが、限られた紙数でチベット旅行のダイジェストといった内容になっている。
第四部「仏教」には、慧海の手になる『般若心経』の邦訳や、北京に亡命中だったパンチェン・チューキ・ニマから、ナルタン版の『チベット大蔵経』を入手した時の記事「駱駝八頭に乗せて西藏の經典來る」(大阪毎日新聞)などが収録されている。なお筆者には、第四部巻頭の「古梵佛典の腐焼」が興味深かった。慧海が高楠順次郎とともにネパールで蒐集したサンスクリット語仏典の写本は、現在東京大学総合図書館に所蔵されているが、写本を実見した者から、全体が黒ずみ炭化したような外観を呈していると聞いたことがある。筆者は漠然と、東京大学図書館が関東大震災で被災した時、写本も損傷したのではないかと考えていたが、慧海が帰国までの四年間、写本を預けておいたラビンドラナート・タゴール邸での高温と湿気により、写本が腐焼してしまったことを知った。
第五部「その他」には、慧海と同郷の親友で、そのチベット旅行を支援した肥下徳十郎等に宛てた書簡などが収録されている。これらの書簡は、2014年に奥山直司氏によって初めて紹介されたもので、本書には奥山氏による「解説」が付されている。さらに巻末の「物のわかった人 死んだ西蔵の活仏斑禅ラマ」は、親交を結んだパンチェン・チューキ・ニマの遷化に際して「中外日報」に掲載された、いかにも慧海らしいインタビューである。
本書は学術的出版物であるため、1冊9000円と高額であるが、日本のチベット学の黎明期を知る貴重な資料が収録されており、公共図書館や仏教系の大学研究室・図書館などには是非、常備したい基礎資料といえよう。 田中公明

河口慧海著述拾遺 補遺
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河口慧海・著
高山龍三/奥山直司・編

詳説 世界の漢字音

・平成29年9月17日/産経新聞(朝刊25面「読書」欄)
漢字は約3000年前、中国の黄河流域にあたる「中原(ちゅうげん)」で生まれ、現在、世界の4分の1、約16億人が使っている。では、同じ「愛」でも、なぜ国や地域によって発音が異なるのか。本書は日本、韓国、中国(北京、上海、福建、広東)、ベトナムの各音の違いから、漢字文化の流れを分析した世界初の解説書である。
漢字音の変化には一定の法則があり、それを読み解くことで文化の流れが理解できる。例えば、日本音とベトナム音の類似から、古代の漢字音を類推することも可能なのだという。また、共通の漢字音を知ることで語学の勉強にも役立つという。

詳説世界の漢字音
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大野敏明 著

新訳 チップス先生、さようなら

・平成28年7月8日/図書館教育ニュース(株式会社少年写真新聞社/第1407号付録)
舞台は英国の伝統あるパブリック・スクール。よれよれのガウンをまとい、ラテン語の発音が時代遅れだと年下の校長に指摘されても頑として聞き入れない、学校そのものの象徴のような老教師、チップス先生。彼が思い出す、生徒たちとのエピソードはユーモアあふれるものばかり。しかし「あの子も戦場で死んでしまった」という回想が、第一次世界大戦前後の激動の時代を物語ります。“君たちが出て行く時代はひどく面倒なものになりそうだな。でも期待している”というせりふが胸に残ります。旅立つ生徒を慈しむ教師の心は、いつの世も同じようです。
豊富な注釈と原著初版の挿絵も魅力の、読みやすい新訳版です。

新訳チップス先生、さようなら
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ジェイムズ・ヒルトン 著
大島一彦 訳

河口慧海著述拾遺(下)

・平成27年9月11日/中外日報(「中外図書室」のコーナー)
 河口慧海は鎖国下のチベットに単身潜入。チベット語仏典を将来し、帰国後は仏教研究者として精力的に活動、晩年には在家仏教を提唱した。『西蔵旅行記』など膨大な量の著書、論文等は『河口慧海著作集』24巻と『河口慧海著作選集』10巻に集成されている。
本書は著作選集の第10巻。第9巻と共に、慧海研究の第一人者である高山氏が発掘した、著作集・単行本未収録の寄稿、講演記録、手紙などを収める。
 慧海には著書以外にも、中外日報など新聞・雑誌にチベット仏教に関わる寄稿があり、著述活動は巻末の「河口慧海の著作一覧」からうかがうことができる。
 興味深いのは本書所収『黄檗實事録』など黄檗宗の紛争に関わる文章。チベット入りを目指し日本をたつまでの数年間に発表されたもので、20代後半の慧海は宗門改革の動きに深く関係していた。付録の「編年誌」によれば、僧籍返上を届け出ると宗門からは「宗内徘徊禁止」を命じられ、一転、「宗務院臨時事務取扱」に任じられる。動きは慌ただしい。56歳で還俗した慧海と宗門の関係を示す資料だ。

河口慧海著述拾遺 下巻
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高山龍三 編

「ユリシーズ」大全

・平成27年3月8日/熊本新聞(「阿部重夫が読む」)
「我は万巻の書を読みぬ」。フランス象徴派詩人の詩句にそんな大言壮語を見て、はて、それはどんな境地なのだろう、とかつては訝しんだ。だが、万巻の書の読破など不可能ではないのか。知識の水平線が限りなく広がり、「知の巨人」など単なる僭称でしかない。写真的記憶の持ち主だったらしいジェイムズ・ジョイス(『ユリシーズ』著者)の博学といえども、神棚から下ろす時期が来た。しかし先年物故した作家丸谷才一の門弟たちに祀りあげられた難解な傑作『ユリシーズ』信仰は、大学の英文学科に立て籠もって今や化石化していくばかりと思える。
 本書はそのアウトサイダーによる破城槌である。大部の稀覯書のせいでもあるが、当然ながらアカデミアから黙殺された。筆者は畑違いの元大手銀行マンで、邦銀全盛の1980年代ロンドンではコーポレート・ファイナンスで「北村あり」と知られた人。90年代に評者と知り合ったが、『ユリシーズ』丸谷訳の欠陥を滔々と論じ、ダブリンに通って地理を確かめ、文献を蒐集し、世界のジョイス研究の泰斗に直に手紙を書いて、仮説の真偽を確かめる努力に脱帽した記憶がある。
 ジョイスは注なしに読めない。現行の丸谷訳も詳細な注が付いているが、ほとんどがギフォードなど大家の注釈本の引き写しである。英語で注釈本を読めば、日本の「ホンヤク文化」の剽窃の現場を見ることができる。その後ろめたさに口を拭った知ったかぶりが、数々の誤訳を招く。文壇に君臨する芥川賞作家にそれを直言する勇気のある人は皆無だったが、この筆者だけは欧州駐在の地の利を生かして誤訳の証拠を連打し続けた。
「あの批評は文学じゃない」と大手出版社は背を向けた。では、注の剽窃と知ったかぶりが文学なのか。徹底した現場主義と文献探索は、一介のディレッタント好事家の域を越え、評者が棲む調査報道の世界に近づいた。そう、彼はジョイスという「バベルの図書館」を彷徨する書物探偵なのだ。
 彼のオリジナリティーはその執念にある。彼とて大学時代に原文をかじって何度も挫折した。自発的亡命作家のジョイスが、「1904年6月16日のダブリン」を一巻の書に再現し、方言や俗語や卑語、ラテン、ギリシャ語はもちろんヘブライ語まで森羅万象を書きこんだ微細画に、彼もまた望遠鏡をさかしまに覗く「反遠近法」で肉薄していく。彼が卒業した神奈川の栄光学園はジョイスが学んだイエズス会系だから、その教義や祭礼に不案内な丸谷一門とは素地が違う。
 一例を挙げよう。第三挿話385行目にあるmorose delectation(丸谷訳は「陰気な快楽」)に付した注である。筆者はカソリック百科事典から、アクィナス『神学大全』第2―1部第74問題第6項にさかのぼり、さらに中世スコラ哲学の標準教科書、ペトゥルス・ロンバルドゥスの『命題集』に淵源があったことを突き止めている。評者もドゥンス・スコトゥス、ウィリアム・オッカムによる『命題集』注釈でロンバルドゥスに触れたが、ここでめぐり会えるとは思わなかった。
 これだけの精査と渉猟をシカトする英文科が、自閉の花園で安逸を貪っているうちに、英文科自体が滅びかけている。ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』にはウィキ型検索ページのFweet Search Engineが登場した。心せよ、もう英文科など要らない時代である。
 1月、筆者と久しぶりに再会した。30年越しの『大全』完成、これから何を?と聞くと、「ジョイスは封印。野間宏全集を買った」という。

★阿部重夫(あべ・しげお) 1948年東京生まれ。月刊誌「ファクタ」発行人兼編集主幹。日本経済新聞記者などを経て現職。

ユリシーズ大全
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北村富治 著

日本電信の祖 石丸安世―慶応元年密航留学した佐賀藩士

・平成25年12月5日/佐賀新聞
日本電信の祖 功績発掘~幕末の佐賀藩士「石丸安世」~
 佐賀県出身で、明治政府の初代電信頭を務め「日本電信の祖」とされる石丸安世(1834~1902年)の伝記を、伊万里市郷土研究会の多久島澄子さん(64)=同市二里町=が出版した。石丸の本格的な伝記は初めてで、あまり知られていなかった石丸の功績を伝えている。
 石丸は佐賀藩士の四男として現在の佐賀市本庄町に生まれた。青年期に佐賀藩蘭学寮、長崎海軍伝習所などで学んだ。32歳の時、藩主鍋島直正の意向を受け、じかに西洋の学問に触れるため、英国貿易商人グラバーのあっせんでイギリスへ密航留学。電信(電気通信)など当時最先端の科学技術を吸収した。
帰国後は、科学知識を生かして佐賀藩の炭鉱開発などを手がけ、明治に入ると政府の工部省に入省。初代電信頭として、電信の敷設にまい進し、数年で全国に電気通信網を張り巡らせ、日本の情報伝達の礎を築いた。
 その後、大蔵省で造幣局長に登用されたほか、造船業の普及に努めるなど、明治政府の中枢として活躍した。また私塾東京経綸舎を開き、日本初のエ学博士となった多久市出身の志田林三郎ら後進を育成した。本書では、石丸の功績のほか、大隈重信や久米邦武ら、県出身の明治の立役者との交流にも触れ、石丸の人物像を描いている。
 著者の多久島さんは、31年前に県職員として有田町の県立九州陶磁文化館で働いていた時、有田の窯業に科学技術を導入した人物として石丸を知り、興味を持った。石丸の先行研究は少なく、地道に足跡を追い、市郷土研究会の会誌「鳥ん枕」で20回連載した。
定年退職した60歳からは東京の早稲田大学オープンカレッジに通い、さらに資料を集め、伝記をまとめた。
 指導した早大の島善高教授は「石丸は近代日本史上、逸することのできない人物だが、これまでまとまった伝記は著されていない。多久島さんは数多くの新資料を発掘し、初めて石丸の生涯を浮き彫りにさせた」と評する。多久島さんは「この本を機に石丸安世の名が認識され、幕末佐賀藩の研究が盛んになればうれしい」と話す。

日本電信の祖 石丸安世―慶応元年密航留学した佐賀藩士
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多久島澄子 著

近現代における茶の湯家元の研究

・平成25年2月21日/中日新聞(総合)
茶道家元の権威に論文で斬り込んだ 広田 吉崇さん
 茶道家元を日本文化の権威とあがめる風潮に異を唱え、歴史の文脈の中で家元権威化の光と影に斬り込んだ学位論文で、神戸大から博士号を授与された。近著「近現代における茶の湯家元の研究」(慧文社)は、公然と語ることがはばかられた流派統合の係争や、千利休血脈論争の虚実などを暴き出した。
 一九九五年の阪神大震災で兵庫県西宮市の実家が全壊。「形あるものは失われ人の命のはかなさを実感し、がれきの中で美に飢えていた」という。お茶は東京大法学部の学生時代からのめり込んでいた。「私にとって最も美しいものである茶の湯を研究し一冊の本を後世に残す」と誓った。
 家元の社会的な地位の変遷を千家流を中心に江戸時代から幕末、明治・大正期、第二次大戦後にいたるまで膨大な資料にあたり検証した。
 「お茶はもてなしの心ともっばら説く大流派の家元の言説には、実は論理のすり替えがある。広範な大衆層を取り込むため、入門のハードルを低くするための方策」と批判する。半面、中小流派に注ぐまなざしは温かい。「生物同様、茶の湯文化の多様性が失われるのは危険」と強調する。
本業は兵庫県職員。五十三歳。

・「茶華道ニュース(茶華道ニュース社・名古屋市中川区)、第712号(平成25年2月1日)に本書の紹介記事が掲載されました。

現代における茶の湯家元の研究
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廣田吉崇 著

私の祖父 古賀廉造の生涯―葬られた大正の重鎮の素顔

・平成24年1月10日/佐賀新聞
古賀廉造の生涯 疑獄事件の真相に迫る
佐賀藩出身で、明治・大正時代に法学者から政権中枢で活躍したものの、疑獄事件で失脚した古賀廉造(1858~1942年)の伝記『私の祖父 古賀廉造の生涯-葬られた大正の重鎮の素顔』を孫にあたる奥津成子さん(82)=東京都三鷹市=が出版した。「謎に包まれた疑獄事件の真相を、どうしても明らかにしたかった」と6年をかけて調査、執筆した。疑獄事件の背景や古賀の業績など埋もれた史実を掘り起こしている。
古賀は佐賀の蓮池に生まれた。司法省法学校を出て独仏に留学後、検事、大審院判事などを歴任。刑法の“生みの親”、刑法学の第一人者となり、法学校時代からの盟友・原敬(当時内務大臣)の要請で「内閣の探偵部長」といわれた内務省警保局長に就任した。
在任中の1912(明治45)年に、西園寺内閣を揺るがす「広東紙幣偽造事件」が発生。中国紙幣を日本国内で偽造した事件で、首謀者は古賀の私設秘書だった。
関与を疑われ起訴された古賀は無罪になるが、18(大正7)年の原敬内閣発足に伴って拓殖局長に就いた後、アヘン売買の権益に絡む「大連アヘン事件」が発覚し辞任。収賄で有罪となり、以後は社会の表舞台から姿を消した。
奥津さんは当時の新聞や雑誌、古賀と親交のあった陸軍大将の日記などの資料を調査した。
古賀が2つの疑獄事件に関わったのは、偽造事件が当時日本にいた孫文を援助するため、アヘン事件は偽造事件で迷惑を掛けた原敬の政党政治を支える資金集めに走った結果、と推定。「激情に動かされ、崩れ橋を駆け足で通るようなおじいさまの性格ではこうならざるを得なかった」と結論付けている。
このほか、広大な屋敷とそこに暮らした古賀家の人々、自身が触れた晩年の古賀の素顔など、遺族ならではの貴重な証言も記され、波乱を生きた人物像を伝えている。

私の祖父 古賀廉造の生涯
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奥津成子 著

騒音・低周波音・振動の紛争解決ガイドブック

・平成23年7月21日/日刊工業新聞(「話題の本」)
本書は、主として近隣関係における小規模な紛争を念頭に、騒音、低周波音、あるいは振動に関する紛争を解決するために必要ないし有益な知識全般をまとめたもの。
主な読者は、騒音、低周波音あるいは振動に関する事件を受任した弁護士だが、騒音などの被害を受けている人や、被害の苦情を受けている人など、一般の人にも役立つ。
6章から構成されている。1章は音や騒音の物理的性質、単位、測定方法などの知識を整理する。2章は騒音関係法令や条例による規制内容を要約した。3章では騒音関係の裁判例の分析、4章は低周波音を扱う。5章では振動関係、6章は公害紛争処理法に基づく紛争解決方法を説明する。

騒音・低周波音・振動の紛争解決ガイドブック
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村頭秀人 著

江藤淳氏の批評とアメリカ―『アメリカと私』をめぐって

・平成22年8月1日/『正論』8月号
『閉ざされた言語空間』の原点明らかに
 江藤淳氏の最初のアメリカ滞在は昭和三十七年八月末から三十九年六月までの一年と十箇月程である。このアメリカ生活は型通りのそれとは少し違ふが、やはり留学と呼んでよいものであらう。この留学を通じて江藤氏は、文藝批評家として出発した自分の知的活動の中に、大学に於ける文学教師といふ新しい分野を開拓することに成功した。アメリカの大学での研究員としての生活の中で、教師としての自分の優れた素質を発見したのだから、これは氏の留学それ自体が非常な成功だつた事を意味してゐる。その事は廣木氏のこの著の副題である(『アメリカと私』をめぐつて)が示してゐる通り、江藤氏のこの回想記を播く読者の誰しもが明白に感じ取り、且つ納得する所であらう。
 然し、同書を材料として江藤氏の成功物語の複雑な意味を分析する廣木氏の筆は、或る意味で読者の意表を突いた斬新で独創的な方法を取る。
 氏は全篇の二割五分以上を占める「アメリカとは何か」と題する第一章を使つて、江藤氏が現地への適応に苦闘し、惨憺たる努力の揚句にそこに受容される事に成功し、そしてそれにも拘らず意外にあつさりと別れを告げて帰国してしまふ、そのアメリカといふ国の正体を先づ認識しておかうと試みる。そのために氏の用ゐた材料が特異なものである。
 例へば、南北戦争時の南部聯合の大統領ジェファーソン・デイヴィス(極東国際軍事裁判に於ける『パル判決書』の棹尾を飾る有名な一句、正義の女神の秤云々は、この敗軍の将の、北部合衆国に向けての悲憤の吐露の引用である)に代表される南部人の被差別の怨念。捕虜虐待の戦争犯罪容疑をかけられながら幸ひにして生還し得た庄野英二氏が味はつた米人兵士達の傲慢と死の恐怖。又その恐怖を味はひ尽した形で刑死した巣鴨プリズンでの最初の絞首刑犠牲者由利敬中尉の悲運。将又所謂ライシャワー攻勢などと呼ばれたアメリカ製の日本近代史観に対する福田恆存氏の基本的容認と深い所での拒否等々。
 又第二章の江藤氏の留学生活を扱つた本論にあたる部分にも、真珠湾の騙し打ちは米国務省の仕掛けた罠に日本国が嵌められたのに他ならぬ事の考証、而してその騙し打ち宣伝に二十年後の江藤夫人がなほ苦しめられた話が出てくる。此等の論述は、戦中派の評者には紛う方なき現実の(但し間接的な)「経験」の一端なのだが、米軍による日本占領が既に終つてゐた平和条約締結以後の世代である廣木氏が、占領初期の屈辱的な国民的経験をよくもここまで実感を籠めて再現できたものである、と、その文献解読力の細密精緻に感嘆を久しくした。著者は御自分のその方法を(江藤氏の文が斯く導いたのである)と述べてゐるが、その通りであらう。
 廣木氏のこの方法は、江藤淳評価として画期的な成果である。後年の江藤氏の最重要な業績である「閉ざされた言語空間」の研究や『占領史録』の編纂の元来の動機付けは、氏の青春時代の、現地に身を置いての「アメリカとの対決」に由来することが論証された、と言つてよいであらう。
(東京大学名誉教授 小堀桂一郎)

平成22年7月11日/産経新聞( 読書欄)
 戦後を代表する文芸評論家、江藤淳の文業の奥底にある、「アメリカ」という問題に着目した力作評論。
 江藤淳にとってのアメリカは、戦争に負けた相手として始まり、文学研究者としての留学先であり、そして日本に決定的な影響を刻んだ国だった。江藤のアンビバレントな対米感情を描きつつ、それが戦後日本という国の姿勢と二重写しになっていく。留学時のアメリカ体験を中心に読み進めるが、江藤淳という人柄に寄り添おうとする筆致に真心がこもっている。
 江藤が文芸評論家として大成した後に打ち込み、同時代の文学者たちからはあまり理解されなかった占領期研究も、内的必然性をもった行為だったことがわかる。

江藤淳氏の批評とアメリカ
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廣木寧 著

西蔵チベット問題―青木文教外交調書

・平成21年3月10日/産経新聞(文化欄)
「チベット史知る第一級史料 慧文社が「西蔵問題-青木文教外交調書-」出版」
 戦前と戦時下の日本とチベットの関係についてチベット研究の第一人者で外交にも携わった青木文教[ぶんきょう]氏の活動を通じて紹介する「西蔵[チベット]問題-青木文教外交調書-」(慧文社)が出版された。戦時中にチベット政府の代表団が秘密裏に訪日したことなどが明かされ、青木氏による対チベット戦略案が記された外務省所蔵の極秘文書も収録。チベット問題についての理解を深める上でも第一級の史料となりそうだ。
 青木氏は大正時代に5年間、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世と親交を持った僧侶。戦時下に外務省の嘱託職員としてチベット問題を研究した。本書は、当時のチベットを取り巻く国際情勢などについて青木氏が書き残した文書を一冊にまとめたもの。
 当時のチベットでは中国や英国、旧ソ連の勢力がせめぎ合っていた。青木氏は文書の一つで、「ソ連の南下を阻止するため、機先を制し、チベットへの政治工作を進め、軍事介入すべき」と提案。「チベット民族は日本と同じ仏教の流れをくむから、その際は好意を寄せると確信している」などと記している。
 別の史料では、昭和17年秋に対チベット工作の一環として、当時北京にいたチベットの高僧らをチベット政府代表団として日本に非公式に招いたことが紹介される。日本側はインド大陸への進出にチベットの協力を求め、「(チベット側は)チベットの存立には仏教に理解がある日本の援助が必要と述べた」などと書き残されている。
 1959(昭和34)年3月、中国共産党の支配下にあったチベットのラサで反共の民衆蜂起が起きてから、きょう10日はちょうど半世紀の節目にあたる。 慧文社の担当編集者は「民衆蜂起以前のチベット史がいかに波乱に満ちていたか、正しい認識を持った上で今のチベット問題と向き合うことが大切だと思い、出版に踏み切った」と話している。

・平成21年3月14日/読売新聞(夕刊) 「とれんど」欄
「チベットと日本近代史」
 雪山を背景に2頭の白い獅子を描いたチベット旗は、日本人がデザインしたとも言われる。
 1912年に浄土真宗本願寺派本山からチベットに派遣された青木文教氏は、チベット軍の司令官と一緒に「戯れに図案を作ってみた紙片」がダライ・ラマ13世の目に留まり、仮の軍旗になったと著書に記している。
 現在のチベット亡命政府は、12年に作られた軍旗がチベット旗のデザインの基になっているが、青木氏の関与については史料不足で真偽不明としている。
 ともあれ、当時の日本とチベットの良好な関係を示唆するエピソードではある。
 チベットは18世紀に清の支配下に入ったが、清朝崩壊後は英国や旧ソ連などの勢力がせめぎあっていった。
 後に外務省嘱託となった青木氏の外交調書をまとめ最近刊行された「西蔵[チベット]問題」(慧文社)にも興味深い記述がある。
 日米開戦の半年後、北京駐在のチベット側代表は秘密裏に来日し、外務省や参謀本部で意見交換を行ったという。
 青木氏は、中国と戦う日本がいずれチベットを掌握することも視野に「チベット民心を支配する唯一の要諦[ようてい]」はチベット仏教政策にあるとも論じている。
 ダライ・ラマ14世がインドに亡命するきっかけとなったチベット動乱から50年が過ぎたが、日本近代史とチベット100年史の交錯にも目を向けたい。
(論説委員 天日 隆彦)

・平成21年3月26日/中外日報 「中外図書室」欄
「チベット問題の一級史料「外務省調書」を初公開」
 三月十日はチベット民族蜂起からちょうど五十年にあたるが、その時にあたり、近代チベットの歴史と往時の民族文化を記した貴重な史料(極秘文書)が初公開されることになった。
 本書は浄土真宗本願寺派の僧侶で、昭和十六年から終戦まで外務省調査局の嘱託職員として、チベット(西蔵)研究に従事した著者による三篇の「外務省調書」を底本とし、慧文社が編集・改訂を加えたもので、チベット問題を理解する上で一級の基礎史料といえる。
 著者は仏教大学(現龍谷大学)大学院在学中に当時の大谷光瑞法主の秘書となり、仏教遺跡の研究に従事。大正元年から五年まではチベットのラサに滞在し、ダライ・ラマ十三世と親交を持ったというチベット研究の先駆者の一人であった。
 さらに終戦までの一時期、外務省嘱託職員として、対チベット外交にかかわりを持った著者は克明な記録を残した。これらは古代吐蕃王国以来のチベット外交史を分かりやすく記述したもので、その中にはチベット政府代表団の秘密裏の訪日、戦時下の対チベット戦略案など、知られざる秘話も明らかにされている。
 本書は「近代チベット史叢書」の第一巻として位置付けられており、今後、第二巻『西蔵の民族と文化』(青木文教著)、第三巻『西蔵探検記』(スウェン・ヘディン著)、第四巻『西蔵・過去と現在』(チャールス・ベル著)、第五巻『西蔵・英帝国の侵略過程』(フランシス・ヤングハズバンド著)が順次刊行の予定。

西蔵問題
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青木文教 著

直江兼続伝/直江城州公小伝

・平成20年12月11日/山形新聞
「直江兼続関連本、相次ぎ出版 大河ドラマ「天地人」放送を前に」
 知勇兼備で知られ、米沢市の町並みの基礎を築いた武将直江兼続を主人公にしたNHK大河ドラマ「天地人」の放送開始を前に、兼続関連本が相次いで出版されている。火坂雅志さんが本紙に連載した原作をはじめ、地元の郷土史家による著書の復刊も目立ち、県内の多くの書店では「天地人」特集の書棚を設置。空前の兼続本ブームの兆しを見せている。
 山形市の八文字屋本店は「兼続に関する本はすべて取り寄せ、そろえている」。11月中旬から急激に兼続関連の出版物が増えてきたといい、正面入り口近くに広く場所を取った書棚には50種ほどが並ぶ。
(中略)
 目を引くのは復刊本の多さ。米沢市史編纂委員故今井清見さんによる「直江城州公小伝」(慧文社)や、新潟県出身の郷土史家故木村徳衛さんの私家版「直江兼続伝」(同)など、60年以上前に初版が出た本が改訂を加えて刊行された。米沢市の米沢信用金庫が1989年に出版した「直江兼続伝」(酸漿出版)は、同市の故渡部恵吉さん、小野栄さん、遠藤綺一郎さんの共著。当時は非売品だったが、今年再版された。
(後略)

http://yamagata-np.jp/news/200812/11/kj_2008121100175.php

直江兼続伝
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木村徳衛 著

戦中戦後の出版と桜井書店 作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲

・平成19年5月20日/毎日新聞(朝刊)
「出版社・桜井書店の記録」
 三島由紀夫の『岬にての物語』をはじめ、佐藤春夫、室生犀星らの著作や児童書も手掛け、個人経営ながら出版史に異彩を放った桜井書店(1940~60)。その店主・桜井均の娘である山口邦子氏の著書『戦中戦後の出版と桜井書店』(2100円、慧文社 03・5392・6069)が刊行された。
 紙不足や空襲、GHQの検閲。文化を守る志と、山林を買って紙を確保するなどの才覚で、桜井は難局を切り抜けた。本書は亡父へのオマージュであると同時に、検閲記録や作家からの書簡などを収め、出版史研究上も貴重な資料となっている。

・平成19年6月21日/ 出版ニュース(6月下旬号)
尾崎士郎、室生犀星、田中英光、三島由紀夫…桜井書店は戦中から戦後にかけて数々の名著を世に送り出した。山口邦子著『戦中戦後の出版と桜井書店―作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲』(B6判・288頁・2000円+税)は、この小さな出版社の活動を記録したものだが、また当時の出版事情を知るうえでも興味深い一冊である。
桜井書店は、桜井均による個人経営の出版社。昭和15年に創業し、戦中戦後の混乱の時代を通して文芸書、哲学書、児童文学書などの出版を続け昭和32年に活動を閉じた。
第1章「作家からの手紙と戦中戦後の出版」は、尾崎士郎、太宰治、田中英光、塚原健二郎らの手紙がとりあげられる。ここではとりわけ田中英光の手紙に焦点があてられる。桜井書店には作家からの前借りの手紙も少なからずあるが、天真爛漫で率直な田中のように、借金の理由などをこまごま書いた手紙はないという。
田中の自殺にも触れ、<太宰治を真似たのではなく、単に同じ病気であったために、同じような行動を取ったのではないだろうか>と著者は言う。
戦中期、そして戦後の検閲についても多くの頁を費やしている。戦中期では吉井勇、和田伝などの手紙を例に、その実態をかいま見ることができる。
戦後のGHQの検閲では、桜井書店の「検閲提出簿」を通して事前検閲から事後検閲への変化や検閲によって禁止処分とされた本、どのような箇所が削除や修正を要求されたか紹介している。
第2章「桜井書店主・桜井均」は、企業整備やGHQ検閲を実際に体験した当事者である桜井均の「思い出ばなし」。またあわせて桜井均の3女である著者が父の思い出を書いている。
本の広告を出すと全国から現金、為替、切手などが同封されて注文が寄せられた。沖縄からの切手や他国の紙幣や軍票もあったが、それらは当時の日本では換金できないもので金銭的価値はなかったが、<父は全ての注文に応じて本を発送するようにしていたという>。そして桜井書店最後の出版は志賀直哉『夕陽』。<父の美意識だったのだと思う>。
巻末に「桜井書店出版目録」が付く。
なお、長男の経済学者桜井毅氏による『出版の意気地―櫻井均と櫻井書店の昭和』(西田書店)が05年に刊行されている。

戦中戦後の出版と桜井書店
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山口邦子 著

「伝承」で歩く京都・奈良 古都の歴史を訪ねて

・平成19年5月6日/産経新聞
 著者は言う。「〝史実″は人間の意思や願いが一部反映した結果でしかないが、〝伝承″とはその意思や願いをも包み込む、その時代の空気を凝縮したものではなかろうか」と。
 JT京都支店長を3年弱務めた著者は、伝承にまつわる史料をあさり、それを手に名所旧跡の探訪に明け暮れた。その果実である本書には、時代順に神武東征から壺坂霊験記まで全71編が収められている。
 まず伝承を平易な筆致で紹介、次いで伝承散歩として、著者が現地リポートをするという体裁をとる。そこに写真、地図、さらに歴史探訪に欠かせない知識が付け加えられる。
 本書を手に訪れる名所旧跡は、前回の訪問とはまったく違った表情を見せ、その時代のにおいまで漂わせることだろう。

伝承で歩く京都・奈良
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本島進 著

古今各国「漢字音」対照辞典

・平成18年11月19日/産経新聞(千葉版)
 現在、漢字は主に日本、韓国、中国、台湾で使われているが、音(読み方)はそれぞれ異なる。しかし、たとえば日本音で「ku」で終わる音は北京語、中原音以外はみな「k」か「c」で終わる。このように各国の音の変化には一定の法則が認められる。各国の言語を学ぶのに、こうした法則を知っていると、かなり理解が早くなる。この漢字の日本、韓国、北京、上海、福建、広東、ベトナムなど各国・地域の音と2000年以上前の上古音、1400年前の中古音などを記載した。これまで漢和辞典や韓漢辞典などはあったが、過去と、現在の各国の漢字音を比較した辞典は世界初とみられる。在野の研究者の労作である。

・平成18年11月25日/読売新聞(千葉版)
「漢字音に魅せられて…3年8カ月かけ対照辞典を出版」
 千葉県柏市柏のメッキ会社経営、増田弘さん(64)が3年8カ月の歳月をかけて、日本と韓国、中国(福建音、広東音、北京音など)、ベトナムの4カ国の文字をローマ字に置き換えて、漢字音を比較した辞書「古今各国『漢字音』対照辞典」(慧文社)を友人と2人で出版した。増田さんにとっては「邪馬台国音韻考」「漢字音対照表」に続く第3弾。「この辞典を参考に対比、分析して、多くの人が古代史に興味を持ってほしい」と話している。
 辞書には約5500文字について収録されている。例えば「志」は漢音「si」、韓国音「ji」、福建音「tsi」、ベトナム音「chi」。「山」では漢音、韓国音、福建音とも「san」、ベトナム音は「son」となる。
 増田さんが「人間の元は言葉」と日本語のルーツに興味を持ったのは昭和58年。仕事関係の視察旅行で初めて韓国を訪れ、韓国語の中に日本古来の言葉「やまと言葉」が数多く潜んでいることに気付いたという。
 「古代の日本語と韓国語は同じで、2つの言葉に中国語が混じり、変化していったのではないか」と疑問を持ち、日本語と韓国語、古代中国語の漢字音を比較する研究を独学で始めることにした。「言語学などの本も数多く読んだが、日本語は独特の言葉で、どこの国とも関係がないという言語学者の主張に納得がいかなかった」と話す。(後略

・平成18年12月9日 フジサンケイ ビジネスアイ
「2000年前からの音を比較 」
 漢字はいまから3000年以上前に、現在の中国中心部で発明された。そこから中国はもちろん、周辺国へ伝えられ、それぞれの文化のもととなった。現在は主に日本、韓国、中国、台湾で使われているが、その音はもちろん異なる。
 その漢字音を2000年前の上古音、1400年前の中古音、1200年前の唐代長安音、1000年前の中原音、さらに現代の日本、韓国、北京、上海、福建、広東、ベトナムの音を比較対照したのが本書。
 同じ中国でも北京、上海、福建、広東の音はそれぞれ違い、互いには通じない。また韓国やベトナムの単語の7割は漢字語だ。
 音の変化には、一定の法則性がある。例えば、日本音で「ku」で終わる音は北京音以外はみな「k」か「c」で終わる。日本音で「tsu」で終わる音は韓国音では「l」で終わる。
 本書は、こうした法則性にも詳しく触れており、各国の言葉を学ぶのにも便利である。
 おそらくこのような辞典の編纂は世界初。2人の著者は在野の研究者で、十数年をかけた労作である。

古今各国漢字音対照辞典
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増田弘・大野敏明―共著

常に諸子の先頭に在り陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰

・平成18年8月21日/産経新聞
 前略)著者は早大文学学術院教授。アメリカ文学の研究家ながら、社会評論での発言も少なくない。自衛隊制服組との交際も広い。だからであろう、類書と異なり軍事的な視点からの記述も見られる。
 8月7日放映の「NHKスペシャル・硫黄島玉砕戦」は「戦争の惨(むご)たらしさ」だけを描いていたが、本書はそうした単眼思考に縛られない。「哀しくも人間らしい美しい日々」「平凡ならざる剛勇」を描き「戦争という試練」に向き合う。(後略
(評者・潮匡人)

その他・平成19年1月24日/読売新聞(夕刊)、雑誌「正論」・雑誌「諸君!」等に掲載!

常に諸子の先頭にあり
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留守晴夫 著

父の国 ドイツ・プロイセン

・平成18年7月9日/産経新聞
温かく客観的に足跡をたどる」
 もし著者の父親がヒトラー暗殺未遂事件(いわゆる「7月20日事件」)に連座して処刑されることなく、無事に戦後を迎えることができていたら、この2人の親子関係はどんなものだったのだろう。実際にはハンス・ゲオルク・クラムロートは1944年8月に絞首刑となり、当時まだ5歳だった彼の娘は、戦後かなり時間がたち、ジャーナリストとして有名になった後で、父の手紙や日記、家族の覚書などの資料から父の足跡をたどり始め、父に「寄り添う」ことになるのだったが。
 7月20日事件は、敗戦を見通したドイツ人のグループが自らヒトラー政権を転覆させようとした企てであり、計画に携わった人々には戦後あらためて評価が与えられるようになった。しかし、著者は資料から読みとれる父親の姿を決して美化することなく、時流に迫られてナチ党に入党したり、ユダヤ人同僚の排斥を黙認してしまう父親の弱さも隠さず記録して、絶えず批判的コメントを加えつつ、20世紀前半のクラムロート家の歴史を再構成していく。
 地方の名士であった上流市民家庭のプライド、商売への情熱、伝統へのこだわりなどがよく伝わってくるし、保守的な一族がナチ体制に絡め取られていくさまも興味深い。著者の父は国防軍の予備役将校であることに誇りを持ち、第一次・第二次の世界大戦に従軍して祖国のために戦った。その祖国は彼にとってナチス・ドイツでもワイマール共和国でもなく、むしろそれ以前のドイツ帝国であり、それが邦題に「ドイツ・プロイセン」という言葉が補われている理由だろう。さして政治的でもなかった一家の主が総統の暗殺計画を黙認するに至る心情は、読む者の想像をかき立ててやまない。
 家族への温かいまなざしを保ちつつも、できるだけ客観的に父を描き出そうとする著者のスタンスには共感が持てる。「です・ます体」で翻訳した文体も、読者に語りかける口調がよく出ていて素直に胸に届く。
評者・松永美穂(早稲田大学教授)

・平成18年7月31日/読売新聞(朝刊)
「ヒトラーに背を向けた父」
 父は軍人。1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を事前に知りながら密告しなかったかどで絞首刑に処された。娘である著者は戦後ドイツで華やかに活躍したジャーナリスト。5歳のとき亡くなった父の記憶はない。60年の歳月を経て、膨大な日記・書簡・写真などをもとに、父と母、その家族の経験を復元する。
 だが、娘が語る父は、ナチスに抵抗した英雄として美化されているわけではない。本書の主人公ハンス・ゲオルクは、ドイツ帝国時代のプロイセンで商事会社を営む裕福な名家に生まれ、跡取り息子として何不自由のない幼少期を送る。この若き父は、将校として第一次世界大戦に勇んで参戦。そして屈辱的な敗戦。戦後のワイマール共和国時代には、母と幸福な結婚をし、5人の子供をもうけ、家業にいそしむ。だが、ナチスが台頭するや、その荒っぽいやり方に多少の違和感を覚えながらも、早々と入党する。入党の日の日記にはこうある。「頼まれてとうとうNSDAPへの申請用紙に署名。夕方、オットー・ハイネ家で室内楽。実に素晴らしいベートーヴェンを披露。大いにやる気が湧いてきた」
 反ユダヤ主義者とまではいえないにせよ、ユダヤ人への弾圧に対して見て見ぬふりをする。面映ゆいほどの愛情を家族に注ぐ良き夫、良き父でありながら、平気で浮気をして母を苦しめる。だが、その母もヒトラーへの熱狂ぶりは父に勝っていたとすらいえるのだ。
 ナチス・ドイツを支えたのは、こういった平凡な無数の「父」であり、また「母」であった。この冷厳な現実にあらためて震撼(しんかん)させられる。その一方で、人間的な欠陥をあわせもつ普通の人であった父が、ぎりぎりのところでヒトラーに背を向けたという事実が胸を打つ。
 本書には、表紙をはじめ数々の写真が添えられているが、そこに映るきまじめで優しげな父の表情も印象的である。猪股和夫訳。
評者・川出 良枝(東京大学教授)

父の国ドイツ・プロイセン
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ヴィプケ・ブルーンス 著、猪股和夫 訳
 

めぐりあいのよろこび

・平成18年3月7日/北陸中日新聞
「3僧侶の法話が本に 金沢の寺院松本住職ら昨秋語る」
 三人の僧侶が昨秋、金沢市内の寺院で行った法話が「めぐりあいのよろこび」のタイトルで、慧文社から出版された。
 法話をしたのは、松本梶丸(白山市・本誓寺住職)、青山俊薫(名古屋市・愛知尼僧堂堂長)、荒崎良徳(金沢市・雲龍寺住職)の三氏。江戸・天保年間から、金沢にある曹洞宗寺院で続く連合法要で語った。松本さんは「お寺だけに仏法や聞法があるわけでない。日常どんな世界にも目を開けば、私というものを教えてくれるものがたくさんある」と語りかけた。
 青山さんは「生命の尊いすばらしい働きというものを全部が平等に頂いて、一輪の花も咲く、鳥も鳴く、カエルも鳴く、私もこうしてしゃべることができる」。荒崎さんは「苦しみ悲しみ悩んで観音様に救いを求めたとき、一緒に悩み苦しみ悲しんでくれるのが、観音様の救い」などと話した。千五十円。(今宮久志)
 

・平成18年3月25日/中外日報
 前略)松本住職は「信心は如来の眼」と題して「只管打坐」ならぬ「只管聴聞」という真宗ならではの切り口で人生の機微を軽妙に説き明かす。青山堂長は「授かりとして頂く人生と選んでゆく人生と」をテーマに仏教の要諦である「天地いっぱいの授かりの生命」に気づき、「何を幸せにするかという選ぶ眼の深さ、高さ」が人生を決めるとの見方にもとづく実践を促す。荒崎住職は「慈しみの耳と眼を持つ菩薩さま」として観世音菩薩の救いの本質を明らかにしつつ、般若心経に記された実践方法をわかりやすく紹介している。装丁は荒崎住職の弟・良和氏が描いた草花画が目を引く。

めぐりあいのよろこび
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松本梶丸/青山俊薫/荒崎良徳-著

地域と図書館 図書館の未来のために

・大分合同新聞(朝刊)
  著者は緒方町出身。現滋賀県愛知川町立図書館長。三十年来の〝図書館研究″の学究と実践を通してまとめた「図書館の未来のために」(副題)の記述は、きめ細かく、説得力がある。繰り返す私見のポイントは「マニュアル化されたサービスでなく、地域の実情にあった図書館」の姿。
 五章「地域づくりと図書館」、六章「地域に根ざした経営戦略」は読みたい。「多面性と潜在的な能力」が求められる図書館のありようは、そのまま地域活性化事業のポテンシャルの問題だ。図書館は地域の核となるべきだ、と力説される。図書館の敷地の中に公園を造り、薪能、雅楽、映画会、フリーマーケットなどを行った実践例を紹介。関連して資料、職員の充実などを詳述し、読み手に実行の手だてを示唆している。

地域と図書館
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渡部幹雄 著

明治金澤の蘭方医たち

・平成17年7月17日/北国新聞
「金沢医学の源に若き情熱と意欲」
 金大医学部の源は加賀藩が柿木畠に設けた壮猶(そうゆう)館に観ることができる。元は洋式の砲術研究所だったが、一八六二(文久二)年に蘭方(らんぽう)医学の講習が本格的に始まったという。そこから卯辰山養生所、金澤醫学(いがく)館へと至る金澤医学の流れをたどり、蘭方医学の修得に寝食を忘れ、その普及に尽くしてきた明治の若者たちの情熱と意欲も伝える。
 金沢医学の礎を築いた黒川良安(まさやす)、オランダ人教師スロイス、後任ホルトルマンらの功績、金澤醫学館の講義録を紹介。金澤醫学館の規則と教育の厳しさから、学生四人のうち三人が脱落したことも理解できる。
 熱い温泉に驚いたスロイスが、冷水浴のために海水浴場の設置を藩庁に進言し、ホルトルマンが尾山神社散策中に避雷針の設計図を鉛筆で書いたというエピソードが印象深い。
金澤醫学館での初の人体解剖は、贋(にせ)金作りの犯人の遺体だったという解剖史も詳しい。
 著者は金大大学院医学系研究科助教授。「先人の功績を偲(しの)ぶことなく、本当の医学教育はあり得ない」とその思いを強調している。

明治金澤の蘭方医たち
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山嶋哲盛 著

ペットボトルはペットのボトル

・平成17年6月28日/産経新聞(神奈川版)
 前略)2月26日には「ペットボトルはペットのボトル―誰も苦しまない長生きのための血液透析入門書」(慧文社)を出版。▽透析施設の選び方▽血液透析患者さん特有の生活習慣病ともいえる疾患▽太っていることは最高―など平易な言葉で「自己管理」のポイントを123項目にわたって解説している。「毎朝ペットボトルに適量の水を入れ、ペットのように傍に置くことをお勧めします。自己管理をすれば生活習慣病を防いで元気で長生きできるという理解が必要です」(後略)。

・平成17年7月1日/朝日新聞社 Medical ASAHI
 患者自身が血液透析導入期に自己管理を身に着けていないと、その後様々な苦しみや悩みが起こる。血液透析導入患者、維持透析患者、患者の家族、医療従事者に向けて、元気で長生きするための血液透析の受け方と日常生活の送り方を、透析専門医が分かりやすく解説。生活の規制を一方的に申し渡す指導ではなく、ライフスタイルの改善を目標として説得していく。

ペットボトルはペットのボトル
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矢花眞知子 著

花菩薩

・平成17年1月7日/北陸中日新聞
 金沢市東兼六町の曹洞宗雲竜寺住職、荒崎良徳さん(76)が、禅語や観音経に書かれた一節を選んで詩作し、弟の良和さん(64)=神奈川県横須賀市在住=が描いた山野草の清澄な水彩画を添えた詩画集「花菩薩(ぼさつ)」が出版された。
 
NHKの「こころの時代」などに出演、仏教の教えを分かりやすく説く荒崎住職の含蓄のある言葉とあいまって、親しみやすい仏教世界を見せている。・・・・詩画は、檀家などに送る月一回発行の寺報に三年前から掲載。東京の出版社の目にとまり、一冊にまとめた。
  「春光日々新(春の光、日々に新たなり)」「一雨潤千山(一雨、千山を潤す)」など、三十一の言葉を紹介。「詩は裸にならないと書けない」と、禅語や観音経をめぐる思いを素直に詩に表現している。
  自動車や鉄道車両デザインで活躍した良和さんは年に一回、鎌倉市で個展を開催。美しい草花を描き、見て癒された人も多い。今春、金沢市でも個展を開き、人気を得た。「法華経を拝む」「花巡礼」(国書刊行会)など多くの著作もある荒崎住職は「兄弟合作で、人の心を潤せる仕事をしようと思った。この本もその一つ」と話している。

花菩薩
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荒崎良徳 著/荒崎良和 画

たばこ喫みの弁明

・平成16年6月1日/雑誌『正論』(7月号)
 〔前段省略〕・・・現在喫煙問題について考え、語るということは、日本にとどまらない先進諸国の、文化的な姿勢、つまりは異質なものにたいする不寛容や成熟の拒否について考えざるを得ない、その事を本書は何よりも雄弁に示している。煙草を嫌い、排撃する心性の底にある、未成熟、不寛容を、長い歴史的、文化的射程から語る手際と、裏打ちとなる見識は見事と云うほかない。喫煙問題に関心のある人だけでなく、国を、社会を憂う者、必読の一冊である。(評者・文芸評論家 福田和也氏)

たばこ喫みの弁明
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本島進 著

フェルハドとシリン

・平成14年9月22日/産経新聞(朝刊)
 ペルシャの伝説的な物語を素材にしたトルコの戯曲である。  重病の王女、シリンのところに、シリンを救うといって人の心を読めるという謎の訪問者が現れる。シリンの姉のメフメネ・バヌはシリンを助けるため、男の要求をのむ。要求は三つで、人払いをすること、シリンのために離宮を造営すること、そしてバヌの美貎を妹に譲り渡すこと。バヌは受け入れ、その結果、シリンは死の床から生還する。だが、バヌは醜く変身してしまう。
 
やがて、姉妹は絵師のフェルハドに恋をするが、フェルハドはすべてを捨てて山にこもり、聖者への道を歩みだす…。
 テーマは愛と自己犠牲。二十世紀のトルコを代表する詩人で劇作家でもある著者の、トルコ語原典からの初の邦訳。

・平成14年10月17日/東京新聞(夕刊)
 渇水と病疫に悩む国・アルゼン。人民を統べる女スルタンとその妹が、希代の才能に恵まれた絵描き職人の青年に出会う。三者の愛はどこへ向かうのか・・・。
 第一次世界大戦下のトルコで救国抵抗運動に参加したため、日本では「反帝の闘志」のイメージのあるトルコの詩人・作家が、1940年から10年続いた獄中生活で、ペルシャの伝説に取材し幻想的・詩的な筆致で描いた、自己犠牲と希望の物語。

フェルハドとシリン
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ナ-ズム・ヒクメット著、石井啓一郎 訳

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