■日本電信の祖 石丸安世―慶応元年密航留学した佐賀藩士 |
・平成25年12月5日/佐賀新聞
日本電信の祖 功績発掘~幕末の佐賀藩士「石丸安世」~
佐賀県出身で、明治政府の初代電信頭を務め「日本電信の祖」とされる石丸安世(1834~1902年)の伝記を、伊万里市郷土研究会の多久島澄子さん(64)=同市二里町=が出版した。石丸の本格的な伝記は初めてで、あまり知られていなかった石丸の功績を伝えている。
石丸は佐賀藩士の四男として現在の佐賀市本庄町に生まれた。青年期に佐賀藩蘭学寮、長崎海軍伝習所などで学んだ。32歳の時、藩主鍋島直正の意向を受け、じかに西洋の学問に触れるため、英国貿易商人グラバーのあっせんでイギリスへ密航留学。電信(電気通信)など当時最先端の科学技術を吸収した。
帰国後は、科学知識を生かして佐賀藩の炭鉱開発などを手がけ、明治に入ると政府の工部省に入省。初代電信頭として、電信の敷設にまい進し、数年で全国に電気通信網を張り巡らせ、日本の情報伝達の礎を築いた。
その後、大蔵省で造幣局長に登用されたほか、造船業の普及に努めるなど、明治政府の中枢として活躍した。また私塾東京経綸舎を開き、日本初のエ学博士となった多久市出身の志田林三郎ら後進を育成した。本書では、石丸の功績のほか、大隈重信や久米邦武ら、県出身の明治の立役者との交流にも触れ、石丸の人物像を描いている。
著者の多久島さんは、31年前に県職員として有田町の県立九州陶磁文化館で働いていた時、有田の窯業に科学技術を導入した人物として石丸を知り、興味を持った。石丸の先行研究は少なく、地道に足跡を追い、市郷土研究会の会誌「鳥ん枕」で20回連載した。
定年退職した60歳からは東京の早稲田大学オープンカレッジに通い、さらに資料を集め、伝記をまとめた。
指導した早大の島善高教授は「石丸は近代日本史上、逸することのできない人物だが、これまでまとまった伝記は著されていない。多久島さんは数多くの新資料を発掘し、初めて石丸の生涯を浮き彫りにさせた」と評する。多久島さんは「この本を機に石丸安世の名が認識され、幕末佐賀藩の研究が盛んになればうれしい」と話す。 |
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多久島澄子 著 |
■近現代における茶の湯家元の研究 |
・平成25年2月21日/中日新聞(総合)
茶道家元の権威に論文で斬り込んだ 広田 吉崇さん
茶道家元を日本文化の権威とあがめる風潮に異を唱え、歴史の文脈の中で家元権威化の光と影に斬り込んだ学位論文で、神戸大から博士号を授与された。近著「近現代における茶の湯家元の研究」(慧文社)は、公然と語ることがはばかられた流派統合の係争や、千利休血脈論争の虚実などを暴き出した。
一九九五年の阪神大震災で兵庫県西宮市の実家が全壊。「形あるものは失われ人の命のはかなさを実感し、がれきの中で美に飢えていた」という。お茶は東京大法学部の学生時代からのめり込んでいた。「私にとって最も美しいものである茶の湯を研究し一冊の本を後世に残す」と誓った。
家元の社会的な地位の変遷を千家流を中心に江戸時代から幕末、明治・大正期、第二次大戦後にいたるまで膨大な資料にあたり検証した。
「お茶はもてなしの心ともっばら説く大流派の家元の言説には、実は論理のすり替えがある。広範な大衆層を取り込むため、入門のハードルを低くするための方策」と批判する。半面、中小流派に注ぐまなざしは温かい。「生物同様、茶の湯文化の多様性が失われるのは危険」と強調する。
本業は兵庫県職員。五十三歳。
・「茶華道ニュース」(茶華道ニュース社・名古屋市中川区)、第712号(平成25年2月1日)に本書の紹介記事が掲載されました。 |
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廣田吉崇 著 |
■私の祖父 古賀廉造の生涯―葬られた大正の重鎮の素顔 |
・平成24年1月10日/佐賀新聞
古賀廉造の生涯 疑獄事件の真相に迫る
佐賀藩出身で、明治・大正時代に法学者から政権中枢で活躍したものの、疑獄事件で失脚した古賀廉造(1858~1942年)の伝記『私の祖父 古賀廉造の生涯-葬られた大正の重鎮の素顔』を孫にあたる奥津成子さん(82)=東京都三鷹市=が出版した。「謎に包まれた疑獄事件の真相を、どうしても明らかにしたかった」と6年をかけて調査、執筆した。疑獄事件の背景や古賀の業績など埋もれた史実を掘り起こしている。
古賀は佐賀の蓮池に生まれた。司法省法学校を出て独仏に留学後、検事、大審院判事などを歴任。刑法の“生みの親”、刑法学の第一人者となり、法学校時代からの盟友・原敬(当時内務大臣)の要請で「内閣の探偵部長」といわれた内務省警保局長に就任した。
在任中の1912(明治45)年に、西園寺内閣を揺るがす「広東紙幣偽造事件」が発生。中国紙幣を日本国内で偽造した事件で、首謀者は古賀の私設秘書だった。
関与を疑われ起訴された古賀は無罪になるが、18(大正7)年の原敬内閣発足に伴って拓殖局長に就いた後、アヘン売買の権益に絡む「大連アヘン事件」が発覚し辞任。収賄で有罪となり、以後は社会の表舞台から姿を消した。
奥津さんは当時の新聞や雑誌、古賀と親交のあった陸軍大将の日記などの資料を調査した。
古賀が2つの疑獄事件に関わったのは、偽造事件が当時日本にいた孫文を援助するため、アヘン事件は偽造事件で迷惑を掛けた原敬の政党政治を支える資金集めに走った結果、と推定。「激情に動かされ、崩れ橋を駆け足で通るようなおじいさまの性格ではこうならざるを得なかった」と結論付けている。
このほか、広大な屋敷とそこに暮らした古賀家の人々、自身が触れた晩年の古賀の素顔など、遺族ならではの貴重な証言も記され、波乱を生きた人物像を伝えている。 |
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奥津成子 著 |
■騒音・低周波音・振動の紛争解決ガイドブック |
・平成23年7月21日/日刊工業新聞(「話題の本」)
本書は、主として近隣関係における小規模な紛争を念頭に、騒音、低周波音、あるいは振動に関する紛争を解決するために必要ないし有益な知識全般をまとめたもの。
主な読者は、騒音、低周波音あるいは振動に関する事件を受任した弁護士だが、騒音などの被害を受けている人や、被害の苦情を受けている人など、一般の人にも役立つ。
6章から構成されている。1章は音や騒音の物理的性質、単位、測定方法などの知識を整理する。2章は騒音関係法令や条例による規制内容を要約した。3章では騒音関係の裁判例の分析、4章は低周波音を扱う。5章では振動関係、6章は公害紛争処理法に基づく紛争解決方法を説明する。 |
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村頭秀人 著 |
■江藤淳氏の批評とアメリカ―『アメリカと私』をめぐって |
・平成22年8月1日/『正論』8月号
『閉ざされた言語空間』の原点明らかに
江藤淳氏の最初のアメリカ滞在は昭和三十七年八月末から三十九年六月までの一年と十箇月程である。このアメリカ生活は型通りのそれとは少し違ふが、やはり留学と呼んでよいものであらう。この留学を通じて江藤氏は、文藝批評家として出発した自分の知的活動の中に、大学に於ける文学教師といふ新しい分野を開拓することに成功した。アメリカの大学での研究員としての生活の中で、教師としての自分の優れた素質を発見したのだから、これは氏の留学それ自体が非常な成功だつた事を意味してゐる。その事は廣木氏のこの著の副題である(『アメリカと私』をめぐつて)が示してゐる通り、江藤氏のこの回想記を播く読者の誰しもが明白に感じ取り、且つ納得する所であらう。
然し、同書を材料として江藤氏の成功物語の複雑な意味を分析する廣木氏の筆は、或る意味で読者の意表を突いた斬新で独創的な方法を取る。
氏は全篇の二割五分以上を占める「アメリカとは何か」と題する第一章を使つて、江藤氏が現地への適応に苦闘し、惨憺たる努力の揚句にそこに受容される事に成功し、そしてそれにも拘らず意外にあつさりと別れを告げて帰国してしまふ、そのアメリカといふ国の正体を先づ認識しておかうと試みる。そのために氏の用ゐた材料が特異なものである。
例へば、南北戦争時の南部聯合の大統領ジェファーソン・デイヴィス(極東国際軍事裁判に於ける『パル判決書』の棹尾を飾る有名な一句、正義の女神の秤云々は、この敗軍の将の、北部合衆国に向けての悲憤の吐露の引用である)に代表される南部人の被差別の怨念。捕虜虐待の戦争犯罪容疑をかけられながら幸ひにして生還し得た庄野英二氏が味はつた米人兵士達の傲慢と死の恐怖。又その恐怖を味はひ尽した形で刑死した巣鴨プリズンでの最初の絞首刑犠牲者由利敬中尉の悲運。将又所謂ライシャワー攻勢などと呼ばれたアメリカ製の日本近代史観に対する福田恆存氏の基本的容認と深い所での拒否等々。
又第二章の江藤氏の留学生活を扱つた本論にあたる部分にも、真珠湾の騙し打ちは米国務省の仕掛けた罠に日本国が嵌められたのに他ならぬ事の考証、而してその騙し打ち宣伝に二十年後の江藤夫人がなほ苦しめられた話が出てくる。此等の論述は、戦中派の評者には紛う方なき現実の(但し間接的な)「経験」の一端なのだが、米軍による日本占領が既に終つてゐた平和条約締結以後の世代である廣木氏が、占領初期の屈辱的な国民的経験をよくもここまで実感を籠めて再現できたものである、と、その文献解読力の細密精緻に感嘆を久しくした。著者は御自分のその方法を(江藤氏の文が斯く導いたのである)と述べてゐるが、その通りであらう。
廣木氏のこの方法は、江藤淳評価として画期的な成果である。後年の江藤氏の最重要な業績である「閉ざされた言語空間」の研究や『占領史録』の編纂の元来の動機付けは、氏の青春時代の、現地に身を置いての「アメリカとの対決」に由来することが論証された、と言つてよいであらう。
(東京大学名誉教授 小堀桂一郎) ・平成22年7月11日/産経新聞(
読書欄)
戦後を代表する文芸評論家、江藤淳の文業の奥底にある、「アメリカ」という問題に着目した力作評論。
江藤淳にとってのアメリカは、戦争に負けた相手として始まり、文学研究者としての留学先であり、そして日本に決定的な影響を刻んだ国だった。江藤のアンビバレントな対米感情を描きつつ、それが戦後日本という国の姿勢と二重写しになっていく。留学時のアメリカ体験を中心に読み進めるが、江藤淳という人柄に寄り添おうとする筆致に真心がこもっている。
江藤が文芸評論家として大成した後に打ち込み、同時代の文学者たちからはあまり理解されなかった占領期研究も、内的必然性をもった行為だったことがわかる。 |
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廣木寧 著 |
■西蔵問題―青木文教外交調書 |
・平成21年3月10日/産経新聞(文化欄)
「チベット史知る第一級史料 慧文社が「西蔵問題-青木文教外交調書-」出版」
戦前と戦時下の日本とチベットの関係についてチベット研究の第一人者で外交にも携わった青木文教[ぶんきょう]氏の活動を通じて紹介する「西蔵[チベット]問題-青木文教外交調書-」(慧文社)が出版された。戦時中にチベット政府の代表団が秘密裏に訪日したことなどが明かされ、青木氏による対チベット戦略案が記された外務省所蔵の極秘文書も収録。チベット問題についての理解を深める上でも第一級の史料となりそうだ。
青木氏は大正時代に5年間、チベットに滞在し、ダライ・ラマ13世と親交を持った僧侶。戦時下に外務省の嘱託職員としてチベット問題を研究した。本書は、当時のチベットを取り巻く国際情勢などについて青木氏が書き残した文書を一冊にまとめたもの。
当時のチベットでは中国や英国、旧ソ連の勢力がせめぎ合っていた。青木氏は文書の一つで、「ソ連の南下を阻止するため、機先を制し、チベットへの政治工作を進め、軍事介入すべき」と提案。「チベット民族は日本と同じ仏教の流れをくむから、その際は好意を寄せると確信している」などと記している。
別の史料では、昭和17年秋に対チベット工作の一環として、当時北京にいたチベットの高僧らをチベット政府代表団として日本に非公式に招いたことが紹介される。日本側はインド大陸への進出にチベットの協力を求め、「(チベット側は)チベットの存立には仏教に理解がある日本の援助が必要と述べた」などと書き残されている。
1959(昭和34)年3月、中国共産党の支配下にあったチベットのラサで反共の民衆蜂起が起きてから、きょう10日はちょうど半世紀の節目にあたる。
慧文社の担当編集者は「民衆蜂起以前のチベット史がいかに波乱に満ちていたか、正しい認識を持った上で今のチベット問題と向き合うことが大切だと思い、出版に踏み切った」と話している。 ・平成21年3月14日/読売新聞(夕刊)
「とれんど」欄
「チベットと日本近代史」
雪山を背景に2頭の白い獅子を描いたチベット旗は、日本人がデザインしたとも言われる。
1912年に浄土真宗本願寺派本山からチベットに派遣された青木文教氏は、チベット軍の司令官と一緒に「戯れに図案を作ってみた紙片」がダライ・ラマ13世の目に留まり、仮の軍旗になったと著書に記している。
現在のチベット亡命政府は、12年に作られた軍旗がチベット旗のデザインの基になっているが、青木氏の関与については史料不足で真偽不明としている。
ともあれ、当時の日本とチベットの良好な関係を示唆するエピソードではある。
チベットは18世紀に清の支配下に入ったが、清朝崩壊後は英国や旧ソ連などの勢力がせめぎあっていった。
後に外務省嘱託となった青木氏の外交調書をまとめ最近刊行された「西蔵[チベット]問題」(慧文社)にも興味深い記述がある。
日米開戦の半年後、北京駐在のチベット側代表は秘密裏に来日し、外務省や参謀本部で意見交換を行ったという。
青木氏は、中国と戦う日本がいずれチベットを掌握することも視野に「チベット民心を支配する唯一の要諦[ようてい]」はチベット仏教政策にあるとも論じている。
ダライ・ラマ14世がインドに亡命するきっかけとなったチベット動乱から50年が過ぎたが、日本近代史とチベット100年史の交錯にも目を向けたい。
(論説委員 天日 隆彦) ・平成21年3月26日/中外日報
「中外図書室」欄
「チベット問題の一級史料「外務省調書」を初公開」
三月十日はチベット民族蜂起からちょうど五十年にあたるが、その時にあたり、近代チベットの歴史と往時の民族文化を記した貴重な史料(極秘文書)が初公開されることになった。
本書は浄土真宗本願寺派の僧侶で、昭和十六年から終戦まで外務省調査局の嘱託職員として、チベット(西蔵)研究に従事した著者による三篇の「外務省調書」を底本とし、慧文社が編集・改訂を加えたもので、チベット問題を理解する上で一級の基礎史料といえる。
著者は仏教大学(現龍谷大学)大学院在学中に当時の大谷光瑞法主の秘書となり、仏教遺跡の研究に従事。大正元年から五年まではチベットのラサに滞在し、ダライ・ラマ十三世と親交を持ったというチベット研究の先駆者の一人であった。
さらに終戦までの一時期、外務省嘱託職員として、対チベット外交にかかわりを持った著者は克明な記録を残した。これらは古代吐蕃王国以来のチベット外交史を分かりやすく記述したもので、その中にはチベット政府代表団の秘密裏の訪日、戦時下の対チベット戦略案など、知られざる秘話も明らかにされている。
本書は「近代チベット史叢書」の第一巻として位置付けられており、今後、第二巻『西蔵の民族と文化』(青木文教著)、第三巻『西蔵探検記』(スウェン・ヘディン著)、第四巻『西蔵・過去と現在』(チャールス・ベル著)、第五巻『西蔵・英帝国の侵略過程』(フランシス・ヤングハズバンド著)が順次刊行の予定。 |
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青木文教 著 |
■直江兼続伝/直江城州公小伝 |
・平成20年12月11日/山形新聞
「直江兼続関連本、相次ぎ出版 大河ドラマ「天地人」放送を前に」
知勇兼備で知られ、米沢市の町並みの基礎を築いた武将直江兼続を主人公にしたNHK大河ドラマ「天地人」の放送開始を前に、兼続関連本が相次いで出版されている。火坂雅志さんが本紙に連載した原作をはじめ、地元の郷土史家による著書の復刊も目立ち、県内の多くの書店では「天地人」特集の書棚を設置。空前の兼続本ブームの兆しを見せている。
山形市の八文字屋本店は「兼続に関する本はすべて取り寄せ、そろえている」。11月中旬から急激に兼続関連の出版物が増えてきたといい、正面入り口近くに広く場所を取った書棚には50種ほどが並ぶ。
(中略)
目を引くのは復刊本の多さ。米沢市史編纂委員故今井清見さんによる「直江城州公小伝」(慧文社)や、新潟県出身の郷土史家故木村徳衛さんの私家版「直江兼続伝」(同)など、60年以上前に初版が出た本が改訂を加えて刊行された。米沢市の米沢信用金庫が1989年に出版した「直江兼続伝」(酸漿出版)は、同市の故渡部恵吉さん、小野栄さん、遠藤綺一郎さんの共著。当時は非売品だったが、今年再版された。
(後略)
http://yamagata-np.jp/news/200812/11/kj_2008121100175.php |
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木村徳衛 著 |
■戦中戦後の出版と桜井書店 作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲 |
・平成19年5月20日/毎日新聞(朝刊)
「出版社・桜井書店の記録」
三島由紀夫の『岬にての物語』をはじめ、佐藤春夫、室生犀星らの著作や児童書も手掛け、個人経営ながら出版史に異彩を放った桜井書店(1940~60)。その店主・桜井均の娘である山口邦子氏の著書『戦中戦後の出版と桜井書店』(2100円、慧文社 03・5392・6069)が刊行された。
紙不足や空襲、GHQの検閲。文化を守る志と、山林を買って紙を確保するなどの才覚で、桜井は難局を切り抜けた。本書は亡父へのオマージュであると同時に、検閲記録や作家からの書簡などを収め、出版史研究上も貴重な資料となっている。 ・平成19年6月21日/
出版ニュース(6月下旬号)
尾崎士郎、室生犀星、田中英光、三島由紀夫…桜井書店は戦中から戦後にかけて数々の名著を世に送り出した。山口邦子著『戦中戦後の出版と桜井書店―作家からの手紙・企業整備・GHQ検閲』(B6判・288頁・2000円+税)は、この小さな出版社の活動を記録したものだが、また当時の出版事情を知るうえでも興味深い一冊である。
桜井書店は、桜井均による個人経営の出版社。昭和15年に創業し、戦中戦後の混乱の時代を通して文芸書、哲学書、児童文学書などの出版を続け昭和32年に活動を閉じた。
第1章「作家からの手紙と戦中戦後の出版」は、尾崎士郎、太宰治、田中英光、塚原健二郎らの手紙がとりあげられる。ここではとりわけ田中英光の手紙に焦点があてられる。桜井書店には作家からの前借りの手紙も少なからずあるが、天真爛漫で率直な田中のように、借金の理由などをこまごま書いた手紙はないという。
田中の自殺にも触れ、<太宰治を真似たのではなく、単に同じ病気であったために、同じような行動を取ったのではないだろうか>と著者は言う。
戦中期、そして戦後の検閲についても多くの頁を費やしている。戦中期では吉井勇、和田伝などの手紙を例に、その実態をかいま見ることができる。
戦後のGHQの検閲では、桜井書店の「検閲提出簿」を通して事前検閲から事後検閲への変化や検閲によって禁止処分とされた本、どのような箇所が削除や修正を要求されたか紹介している。
第2章「桜井書店主・桜井均」は、企業整備やGHQ検閲を実際に体験した当事者である桜井均の「思い出ばなし」。またあわせて桜井均の3女である著者が父の思い出を書いている。
本の広告を出すと全国から現金、為替、切手などが同封されて注文が寄せられた。沖縄からの切手や他国の紙幣や軍票もあったが、それらは当時の日本では換金できないもので金銭的価値はなかったが、<父は全ての注文に応じて本を発送するようにしていたという>。そして桜井書店最後の出版は志賀直哉『夕陽』。<父の美意識だったのだと思う>。
巻末に「桜井書店出版目録」が付く。
なお、長男の経済学者桜井毅氏による『出版の意気地―櫻井均と櫻井書店の昭和』(西田書店)が05年に刊行されている。 |
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山口邦子 著 |
■「伝承」で歩く京都・奈良 古都の歴史を訪ねて |
・平成19年5月6日/産経新聞
著者は言う。「〝史実″は人間の意思や願いが一部反映した結果でしかないが、〝伝承″とはその意思や願いをも包み込む、その時代の空気を凝縮したものではなかろうか」と。
JT京都支店長を3年弱務めた著者は、伝承にまつわる史料をあさり、それを手に名所旧跡の探訪に明け暮れた。その果実である本書には、時代順に神武東征から壺坂霊験記まで全71編が収められている。
まず伝承を平易な筆致で紹介、次いで伝承散歩として、著者が現地リポートをするという体裁をとる。そこに写真、地図、さらに歴史探訪に欠かせない知識が付け加えられる。
本書を手に訪れる名所旧跡は、前回の訪問とはまったく違った表情を見せ、その時代のにおいまで漂わせることだろう。
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本島進 著 |
■古今各国「漢字音」対照辞典 |
・平成18年11月19日/産経新聞(千葉版)
現在、漢字は主に日本、韓国、中国、台湾で使われているが、音(読み方)はそれぞれ異なる。しかし、たとえば日本音で「ku」で終わる音は北京語、中原音以外はみな「k」か「c」で終わる。このように各国の音の変化には一定の法則が認められる。各国の言語を学ぶのに、こうした法則を知っていると、かなり理解が早くなる。この漢字の日本、韓国、北京、上海、福建、広東、ベトナムなど各国・地域の音と2000年以上前の上古音、1400年前の中古音などを記載した。これまで漢和辞典や韓漢辞典などはあったが、過去と、現在の各国の漢字音を比較した辞典は世界初とみられる。在野の研究者の労作である。
・平成18年11月25日/読売新聞(千葉版)
「漢字音に魅せられて…3年8カ月かけ対照辞典を出版」
千葉県柏市柏のメッキ会社経営、増田弘さん(64)が3年8カ月の歳月をかけて、日本と韓国、中国(福建音、広東音、北京音など)、ベトナムの4カ国の文字をローマ字に置き換えて、漢字音を比較した辞書「古今各国『漢字音』対照辞典」(慧文社)を友人と2人で出版した。増田さんにとっては「邪馬台国音韻考」「漢字音対照表」に続く第3弾。「この辞典を参考に対比、分析して、多くの人が古代史に興味を持ってほしい」と話している。
辞書には約5500文字について収録されている。例えば「志」は漢音「si」、韓国音「ji」、福建音「tsi」、ベトナム音「chi」。「山」では漢音、韓国音、福建音とも「san」、ベトナム音は「son」となる。
増田さんが「人間の元は言葉」と日本語のルーツに興味を持ったのは昭和58年。仕事関係の視察旅行で初めて韓国を訪れ、韓国語の中に日本古来の言葉「やまと言葉」が数多く潜んでいることに気付いたという。
「古代の日本語と韓国語は同じで、2つの言葉に中国語が混じり、変化していったのではないか」と疑問を持ち、日本語と韓国語、古代中国語の漢字音を比較する研究を独学で始めることにした。「言語学などの本も数多く読んだが、日本語は独特の言葉で、どこの国とも関係がないという言語学者の主張に納得がいかなかった」と話す。(後略)
・平成18年12月9日 フジサンケイ
ビジネスアイ
「2000年前からの音を比較 」
漢字はいまから3000年以上前に、現在の中国中心部で発明された。そこから中国はもちろん、周辺国へ伝えられ、それぞれの文化のもととなった。現在は主に日本、韓国、中国、台湾で使われているが、その音はもちろん異なる。
その漢字音を2000年前の上古音、1400年前の中古音、1200年前の唐代長安音、1000年前の中原音、さらに現代の日本、韓国、北京、上海、福建、広東、ベトナムの音を比較対照したのが本書。
同じ中国でも北京、上海、福建、広東の音はそれぞれ違い、互いには通じない。また韓国やベトナムの単語の7割は漢字語だ。
音の変化には、一定の法則性がある。例えば、日本音で「ku」で終わる音は北京音以外はみな「k」か「c」で終わる。日本音で「tsu」で終わる音は韓国音では「l」で終わる。
本書は、こうした法則性にも詳しく触れており、各国の言葉を学ぶのにも便利である。
おそらくこのような辞典の編纂は世界初。2人の著者は在野の研究者で、十数年をかけた労作である。 |
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増田弘・大野敏明―共著 |
■常に諸子の先頭に在り―陸軍中將栗林忠道と硫黄島戰 |
・平成18年8月21日/産経新聞
前略)著者は早大文学学術院教授。アメリカ文学の研究家ながら、社会評論での発言も少なくない。自衛隊制服組との交際も広い。だからであろう、類書と異なり軍事的な視点からの記述も見られる。
8月7日放映の「NHKスペシャル・硫黄島玉砕戦」は「戦争の惨(むご)たらしさ」だけを描いていたが、本書はそうした単眼思考に縛られない。「哀しくも人間らしい美しい日々」「平凡ならざる剛勇」を描き「戦争という試練」に向き合う。(後略)
(評者・潮匡人)
その他・平成19年1月24日/読売新聞(夕刊)、雑誌「正論」・雑誌「諸君!」等に掲載! |
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留守晴夫 著 |
■父の国 ドイツ・プロイセン |
・平成18年7月9日/産経新聞
「温かく客観的に足跡をたどる」
もし著者の父親がヒトラー暗殺未遂事件(いわゆる「7月20日事件」)に連座して処刑されることなく、無事に戦後を迎えることができていたら、この2人の親子関係はどんなものだったのだろう。実際にはハンス・ゲオルク・クラムロートは1944年8月に絞首刑となり、当時まだ5歳だった彼の娘は、戦後かなり時間がたち、ジャーナリストとして有名になった後で、父の手紙や日記、家族の覚書などの資料から父の足跡をたどり始め、父に「寄り添う」ことになるのだったが。
7月20日事件は、敗戦を見通したドイツ人のグループが自らヒトラー政権を転覆させようとした企てであり、計画に携わった人々には戦後あらためて評価が与えられるようになった。しかし、著者は資料から読みとれる父親の姿を決して美化することなく、時流に迫られてナチ党に入党したり、ユダヤ人同僚の排斥を黙認してしまう父親の弱さも隠さず記録して、絶えず批判的コメントを加えつつ、20世紀前半のクラムロート家の歴史を再構成していく。
地方の名士であった上流市民家庭のプライド、商売への情熱、伝統へのこだわりなどがよく伝わってくるし、保守的な一族がナチ体制に絡め取られていくさまも興味深い。著者の父は国防軍の予備役将校であることに誇りを持ち、第一次・第二次の世界大戦に従軍して祖国のために戦った。その祖国は彼にとってナチス・ドイツでもワイマール共和国でもなく、むしろそれ以前のドイツ帝国であり、それが邦題に「ドイツ・プロイセン」という言葉が補われている理由だろう。さして政治的でもなかった一家の主が総統の暗殺計画を黙認するに至る心情は、読む者の想像をかき立ててやまない。
家族への温かいまなざしを保ちつつも、できるだけ客観的に父を描き出そうとする著者のスタンスには共感が持てる。「です・ます体」で翻訳した文体も、読者に語りかける口調がよく出ていて素直に胸に届く。
評者・松永美穂(早稲田大学教授)
・平成18年7月31日/読売新聞(朝刊)
「ヒトラーに背を向けた父」
父は軍人。1944年7月のヒトラー暗殺未遂事件を事前に知りながら密告しなかったかどで絞首刑に処された。娘である著者は戦後ドイツで華やかに活躍したジャーナリスト。5歳のとき亡くなった父の記憶はない。60年の歳月を経て、膨大な日記・書簡・写真などをもとに、父と母、その家族の経験を復元する。
だが、娘が語る父は、ナチスに抵抗した英雄として美化されているわけではない。本書の主人公ハンス・ゲオルクは、ドイツ帝国時代のプロイセンで商事会社を営む裕福な名家に生まれ、跡取り息子として何不自由のない幼少期を送る。この若き父は、将校として第一次世界大戦に勇んで参戦。そして屈辱的な敗戦。戦後のワイマール共和国時代には、母と幸福な結婚をし、5人の子供をもうけ、家業にいそしむ。だが、ナチスが台頭するや、その荒っぽいやり方に多少の違和感を覚えながらも、早々と入党する。入党の日の日記にはこうある。「頼まれてとうとうNSDAPへの申請用紙に署名。夕方、オットー・ハイネ家で室内楽。実に素晴らしいベートーヴェンを披露。大いにやる気が湧いてきた」
反ユダヤ主義者とまではいえないにせよ、ユダヤ人への弾圧に対して見て見ぬふりをする。面映ゆいほどの愛情を家族に注ぐ良き夫、良き父でありながら、平気で浮気をして母を苦しめる。だが、その母もヒトラーへの熱狂ぶりは父に勝っていたとすらいえるのだ。
ナチス・ドイツを支えたのは、こういった平凡な無数の「父」であり、また「母」であった。この冷厳な現実にあらためて震撼(しんかん)させられる。その一方で、人間的な欠陥をあわせもつ普通の人であった父が、ぎりぎりのところでヒトラーに背を向けたという事実が胸を打つ。
本書には、表紙をはじめ数々の写真が添えられているが、そこに映るきまじめで優しげな父の表情も印象的である。猪股和夫訳。
評者・川出 良枝(東京大学教授) |
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ヴィプケ・ブルーンス 著、猪股和夫 訳
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■めぐりあいのよろこび |
・平成18年3月7日/北陸中日新聞
「3僧侶の法話が本に 金沢の寺院松本住職ら昨秋語る」
三人の僧侶が昨秋、金沢市内の寺院で行った法話が「めぐりあいのよろこび」のタイトルで、慧文社から出版された。
法話をしたのは、松本梶丸(白山市・本誓寺住職)、青山俊薫(名古屋市・愛知尼僧堂堂長)、荒崎良徳(金沢市・雲龍寺住職)の三氏。江戸・天保年間から、金沢にある曹洞宗寺院で続く連合法要で語った。松本さんは「お寺だけに仏法や聞法があるわけでない。日常どんな世界にも目を開けば、私というものを教えてくれるものがたくさんある」と語りかけた。
青山さんは「生命の尊いすばらしい働きというものを全部が平等に頂いて、一輪の花も咲く、鳥も鳴く、カエルも鳴く、私もこうしてしゃべることができる」。荒崎さんは「苦しみ悲しみ悩んで観音様に救いを求めたとき、一緒に悩み苦しみ悲しんでくれるのが、観音様の救い」などと話した。千五十円。(今宮久志)
・平成18年3月25日/中外日報
前略)松本住職は「信心は如来の眼」と題して「只管打坐」ならぬ「只管聴聞」という真宗ならではの切り口で人生の機微を軽妙に説き明かす。青山堂長は「授かりとして頂く人生と選んでゆく人生と」をテーマに仏教の要諦である「天地いっぱいの授かりの生命」に気づき、「何を幸せにするかという選ぶ眼の深さ、高さ」が人生を決めるとの見方にもとづく実践を促す。荒崎住職は「慈しみの耳と眼を持つ菩薩さま」として観世音菩薩の救いの本質を明らかにしつつ、般若心経に記された実践方法をわかりやすく紹介している。装丁は荒崎住職の弟・良和氏が描いた草花画が目を引く。
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松本梶丸/青山俊薫/荒崎良徳-著 |
■地域と図書館 図書館の未来のために |
・大分合同新聞(朝刊)
著者は緒方町出身。現滋賀県愛知川町立図書館長。三十年来の〝図書館研究″の学究と実践を通してまとめた「図書館の未来のために」(副題)の記述は、きめ細かく、説得力がある。繰り返す私見のポイントは「マニュアル化されたサービスでなく、地域の実情にあった図書館」の姿。
五章「地域づくりと図書館」、六章「地域に根ざした経営戦略」は読みたい。「多面性と潜在的な能力」が求められる図書館のありようは、そのまま地域活性化事業のポテンシャルの問題だ。図書館は地域の核となるべきだ、と力説される。図書館の敷地の中に公園を造り、薪能、雅楽、映画会、フリーマーケットなどを行った実践例を紹介。関連して資料、職員の充実などを詳述し、読み手に実行の手だてを示唆している。 |
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渡部幹雄 著 |
■明治金澤の蘭方医たち |
・平成17年7月17日/北国新聞
「金沢医学の源に若き情熱と意欲」
金大医学部の源は加賀藩が柿木畠に設けた壮猶(そうゆう)館に観ることができる。元は洋式の砲術研究所だったが、一八六二(文久二)年に蘭方(らんぽう)医学の講習が本格的に始まったという。そこから卯辰山養生所、金澤醫学(いがく)館へと至る金澤医学の流れをたどり、蘭方医学の修得に寝食を忘れ、その普及に尽くしてきた明治の若者たちの情熱と意欲も伝える。
金沢医学の礎を築いた黒川良安(まさやす)、オランダ人教師スロイス、後任ホルトルマンらの功績、金澤醫学館の講義録を紹介。金澤醫学館の規則と教育の厳しさから、学生四人のうち三人が脱落したことも理解できる。
熱い温泉に驚いたスロイスが、冷水浴のために海水浴場の設置を藩庁に進言し、ホルトルマンが尾山神社散策中に避雷針の設計図を鉛筆で書いたというエピソードが印象深い。
金澤醫学館での初の人体解剖は、贋(にせ)金作りの犯人の遺体だったという解剖史も詳しい。
著者は金大大学院医学系研究科助教授。「先人の功績を偲(しの)ぶことなく、本当の医学教育はあり得ない」とその思いを強調している。 |
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山嶋哲盛 著 |
■ペットボトルはペットのボトル |
・平成17年6月28日/産経新聞(神奈川版)
前略)2月26日には「ペットボトルはペットのボトル―誰も苦しまない長生きのための血液透析入門書」(慧文社)を出版。▽透析施設の選び方▽血液透析患者さん特有の生活習慣病ともいえる疾患▽太っていることは最高―など平易な言葉で「自己管理」のポイントを123項目にわたって解説している。「毎朝ペットボトルに適量の水を入れ、ペットのように傍に置くことをお勧めします。自己管理をすれば生活習慣病を防いで元気で長生きできるという理解が必要です」(後略)。
・平成17年7月1日/朝日新聞社
Medical ASAHI
患者自身が血液透析導入期に自己管理を身に着けていないと、その後様々な苦しみや悩みが起こる。血液透析導入患者、維持透析患者、患者の家族、医療従事者に向けて、元気で長生きするための血液透析の受け方と日常生活の送り方を、透析専門医が分かりやすく解説。生活の規制を一方的に申し渡す指導ではなく、ライフスタイルの改善を目標として説得していく。
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矢花眞知子 著 |